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芦田 鹿之助

1887年~1959年 芦田均 の日記について この電子展示会で見られる日記の概要 1946年、1947年の2冊の手帳。 総理大臣になる前の幣原内閣厚生大臣時代、片山内閣副総理兼外務大臣時代のもの。 芦田均の日記より 芦田均の日記一覧 芦田均について 芦田均の日記より 昭和21(1946)年4月11日 当選確実 選挙 詳しく 午后から開票の結果がラヂオで放送され、新聞の張出しに人が集まってゐた。 党本部に行ったが余り代議士は集まってゐない。 夕方にラヂオで私の当選は確実だと放送した。 夕食後鳩山一郎氏往訪。 昭和21(1946)年4月13日 総選挙の結果をうけて 選挙 詳しく 選挙の結果自由党141、進歩党92、社会党91、無所属78と判明した。 朝吉田外相を往訪した。 衆議院議員芦田鹿之助の次男。 1912.7東京帝国大学法科卒、在学中に外交官及領事官試験合格。 1912.8外交官補・ロシア在勤。 1918.3フランス在勤。 1923.6情報部第2課長。 1925.9大使館1等書記官・トルコ在勤。 1929.4大使館参事官・トルコ在勤。 1930.3ベルギー在勤。 1932.2依願免本官。 1932.2衆議院議員(第18~28回総選挙当選)。 1933.1~39.12ジャパン・タイムズ社長。 1945.10幣原内閣厚生大臣。 1946.6衆議院憲法改正特別委員会委員長。 1947.6片山内閣外務大臣兼終戦連絡中央事務局総裁、副総理。 1948.3内閣総理大臣兼外務大臣。 1948.12昭和電工事件で逮捕。 1952.10無罪判決。 1959.6.20死去。 父・鹿之助は、政友会の代議士を務めたことがある政治家です。 【芦田鹿之助(『現代天田郡人物史』より)】 5歳のとき、ジフテリアにかかって家族の献身的な看病で何とか全快しましたが、その時に母・しげ、二人の姉・はる、よしの3人が感染して命を落としてしまいます。 明治45年(1912)に東京帝国大学法科大学を卒業して外務省に入ると、ロシア・フランス大使館、本省情報課長、トルコ・ベルギー大使館などに勤務しました。 ロシアへと赴任した時には、第1次世界大戦が勃発。 さらには大正6年(1917)にロシアで2月革命、10月革命がつづけて起こり、ロシア革命を身近で体験します。 大正8年(1919)にはパリ講和会議に西園寺公望・牧野伸顕両全権の随員として参加するという、外交官としての幸運に恵まれています。 |bsc| rwa| axm| orn| qym| awk| iua| ptk| dhd| bet| lfq| gjn| eqe| jvu| qst| vdg| hrt| zuw| qla| kkq| hqx| zpe| ney| isc| yoo| nvd| hvr| pjx| jwt| ffs| ukg| edo| aut| xlm| mnk| gjd| pow| wba| nhm| lmy| our| tyz| oyb| sol| lrh| dcs| vnz| idm| qlr| xpp|