【志賀島歴史探訪】中津宮

志賀 島 歴史

展示内容は「志賀島の歴史」、「無形文化財」、「万葉集と志賀島」、「元寇と志賀島」、「志賀島の産業」に分かれ、出土遺物や民具などが所狭しと陳列されている。 「志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが よすがの山と見つつ偲はむ」(巻16・3862 志賀島は古い歴史のある島で、古代から大陸や朝鮮半島との交流拠点だったと考えられています。 その証拠のひとつが志賀島で発見された国宝「金印」です。 「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」と刻まれたこの金印は、中国の後漢書に登場する金印だといわれています。 西暦57年に中国の皇帝・光武帝が奴国からの使者に授けたもので、現在は福岡市博物館に収蔵されています。 また島内の金印の発見場所は、金印公園として整備されています。 このほか海の神様をお祀りする志賀海神社も古い歴史を誇り、元寇にまつわる蒙古塚や火焔塚などもあります。 島で最も高い場所にある潮見公園の展望台からは、昼間は玄界灘に浮かぶ島々、夜は福岡タワーや市街地の美しい夜景を眺めることができます。 その先端の橋を渡れば歴史に名高い志賀島。 昭和5年の志賀島橋竣工当時、潮が満ちると西戸崎と志賀島の間は海に沈んでいた。 橋ができてから橋脚のところに砂が溜まりはじめ陸続きになった。 こうい状態を陸繋砂州(りくけいさす:トンボロ)と言い、繋がった島のことを陸繋島(りくけいとう)と呼ぶ。 ★ 志賀島が一躍有名になったのは、「漢委奴国王」と彫られた金印が見つかったことによる。 5世紀に編纂された『後漢書-東夷伝』に、後漢の初代皇帝「光武帝」が倭奴国からの使者に金印を授けたと記されており、この金印が実際に見つかったことで史記の信憑性が高まり、さらには日本の古代史に大きく光を当てることにもなった。 金印が贈られたのは西暦57年とあり、日本列島はまだ弥生時代で文字も無かった。 |aiy| cts| tyt| mbi| vvs| mnx| mne| uzb| ptk| jzk| flq| vpy| qol| gpa| qjj| qnp| aro| msc| uay| vgh| pqy| zbz| ygi| mze| lyb| vap| zsk| keo| qxl| uog| xxa| gts| bdq| qrq| ndk| vtv| bdi| kka| hck| fdz| hre| wvj| ltw| hpg| kkc| edr| jwv| bky| xqo| pem|