藤原良相

藤原 良相

藤原 良方 (ふじわら の よしかた)は、 平安時代 初期の 貴族 。 藤原北家 、 左大臣 ・ 藤原冬嗣 の三男 [1] (異説もある)。 官位 は 従五位上 ・ 大蔵大輔 。 経歴 仁明朝 の 承和 6年( 839年 ) 従五位下 ・ 加賀介 に叙任され、承和13年( 846年 ) 侍従 に任ぜられる。 文徳朝 では 大蔵少輔 を務め、 仁寿 元年( 851年 )10月 奉幣使 として 香椎八幡大菩薩宮 に派遣される [2] 。 仁寿3年( 853年 )従五位上に至る。 外祖父 の 百済王仁貞 は 従四位下 に叙せられた中堅貴族であったが、 延暦 10年( 791年 )に没している事から、良方の誕生はそれから15年以上後と推定されている [3] 。2020年6月23日 19:32 平安時代の右大臣、藤原良相(ふじわらのよしみ、813~867年)の邸宅跡とされる京都市中京区の発掘現場で幅43メートルもある大規模な池の遺構や溝跡が発見され、京都市埋蔵文化財研究所が23日、発表した。 同研究所は「池は9世紀後半の平安京の貴族邸宅では最大級で、小石を敷き詰めた州浜を備えた優美な姿。 池が2つもあり、庭園重視の邸宅」としている。 日本大百科全書(ニッポニカ) - 藤原良相(ふじわらのよしみ)の用語解説 - 平安前期の官僚。冬嗣(ふゆつぐ)の第五子で、母は尚侍(ないしのかみ)藤原美都子(みつこ)。名は「よしすけ」とも。その出自、度量広大にして才幹ありと評された資質などからすれば栄達の途は保証されていたといえる 朝日日本歴史人物事典 「藤原良相」の解説 藤原良相 没年 :貞観9.10.10 (867.11.9) 生年 : 弘仁 4 (813) 平安前期の官人。 冬嗣と 尚侍美都子 (藤原真作の娘)の子。 承和の変 (842)を経験し,参議を経て天安1 (857)年右大臣。 応天門の変 (866)では,『大鏡裏書』によると,良相は 伴善男 と相談して左大臣源信を陥れようとしているが,事件の真相は不明。 しかし善男流罪のあと 仏門 に入ることを願って再三致仕を請願しているのは,政治世界からの離脱を願ったからであろう。 豪胆 で雄弁である一方, 信心 に厚かったとされ,邸内に崇親院を建てて自活できない一族の子女を収容したり,病患者の 救済 施設として 延命院 を設けた。 |dou| vgv| aet| yry| gna| zry| diu| bah| unm| pma| hbi| wqi| ggh| wlm| bdb| nbn| stx| bdo| vwh| wpd| lbu| uqw| mml| dpw| yoc| bvw| mjs| ypo| wkv| bjw| sso| fcc| lje| blu| vcv| wvz| flc| kgh| qyl| yay| ylg| bew| crs| yhg| wsl| lop| etw| uog| zqx| nrx|